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祟る人ファンクラブログ

15年経っても刑部ラブ
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2-2:大谷刑部の家族 その二

謎だらけ大谷刑部の家族に迫る第二弾。
※2004年くらいに書いたものなので、現在はもっと新しい説が出てきているかもしれません。
その点ご了承ください。


参考
*歴史読本 04年11月号 特集関ヶ原合戦全史
*石田三成研究家、白川亨氏のNHK公開質問状
*大谷刑部のすべて


ずいぶん前のある日私はネットをぷらぷらしていて、白川さんという方のNHKの番組に対する公開質問状に出会いました。なんか難しい事が沢山書かれていて私の脳みそではかなりわけわかめでしたが、一個さらりと凄く気になる記述が。

『太宰府天満宮文化研究所から依頼された『鶴亀文懸鏡奉納者の人物考証』を提示し、文禄二年九月吉日、大谷刑部少輔吉継が朝鮮出兵からの帰国途上、太宰府天満宮に立ち寄り奉納した大鏡二面の内、残りの一面の奉納者「同東、小石、徳、小屋」の全てについての人物考証を行い、「同東」すでに国学院大学・宮本氏の考証どうり「太谷東殿」を意味するものと捉え、宮本氏の推論はその真相に迫る一提言として注目していると述べました。
さらに「小石」に就いては三成の次女と推論し、関ヶ原前年の慶長四年(一五九九)八月、会津に帰国する直江兼続に託され、やがて上杉家の家臣に転じた岡半兵衛重政(孝蔵主の義甥)の嫁に成った人であると述べ、それに代えて北政所の要請によって三成の三女(辰子)を養子に所望して迎え、その十年後の慶長十五年(一六一〇)六月、孝蔵主に伴われて江戸に下り、津軽二代藩主信牧公に嫁いだと述べたはずです(徳、小屋の人物考証に就いては省略)。』

天満宮にあるさまざまなお宝たち。なかでも「天神に対して祈念するため奉納されたもの」に、文禄の役(1593)で朝鮮半島から無事帰還した刑部とその家族が奉納した鏡があるというのです。
「太宰府天満宮鶴亀文懸鏡」福岡県指定の有形文化財。「そこはかとなく祟る人」が「祟りの大先輩」に鏡を御供えしたってことでしょうか…
いや、それよりこれは刑部とその他家族らしき名前が記されているということ、刑部の家族の名前判明という事ですか?謎に包まれた家族を持つ大谷ファンにこれは福音としか言い様がない…とここまできて我にかえりました。
「東殿」というのは刑部ファンでは(多分)有名な、朝比奈とかって異名も持つなんか実力者っぽい謎のおかん、この人に確定の模様です。しかし問題はほかの

小石、徳、小屋

小石と徳はいいとして「小屋」ってなに厩戸皇子ですか。なんかのシャレですか。シャレだとしたら歴史読本の後ろにいつも載ってるチェリオの広告くらい微妙だよ…
そういえば上の公開質問状では小石は三成の次女って書いてあるし、徳、小屋の人物考証は爽やかに省略されてるし、そこが重要なんだ、教えて、教えて国学院大学の宮本先生ー!!

そんなこんなでいろいろ調べだした結果色々情報が集まりました。
歴史読本と言えば堅実朴訥な誌面作り、充実した記事とコラム、チェリオの微妙な広告などがありますが「歴史読本 04年11月号 特集関ヶ原合戦全史」に外岡慎一郎氏「大谷吉継と関ヶ原」という人物検証が載っていて、そこでは『青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)の坊官である大谷家の系図「華頂要略(かちょうようろく)」』という漢字多過ぎでわけわっかんない新資料が提示され、吉継には「コヤ」の名で残る妹がいたと書かれているのです。新資料、新説どんどん出て、今後の研究に期待しています。
さて…ここではコヤは妹でした。

そこでとりいだしたるは我らがバイブル「大谷刑部のすべて」ですよ!
というか拾い読みばかりで実はあんまししっかり読んでいなかったです…ありました小石と小屋!!76ページ周辺「鶴亀文懸鏡」の分析がしっかりこってり書いてあるとです。

「小石、小屋、徳は彼の妻女達と察せられ」また79ページには「真田昌幸の次男幸村にむすめの1人(前述「小石」「徳」「小屋」のうち妻「小石」を除く二人のうち1人)」

妻が小石!すごい事になってきました。どんどん大谷一家の女性陣の姿が明るみになってきます。ありがとう、この論文書いてくれた宮本義己さん!!
あれ…ひょっとして国学院大学の宮本先生ですか?


まとめますと、
三成研究家の白川さん「小石は三成の次女」説
新資料提示の外岡さん「小屋は妹」説
鏡を分析の宮本さん「小石は妻で徳と小屋は娘」説

そんな感じでいろいろ意見分かれています。
うーん…こうなったら出生説と同様に自分の気に入ったものを選べる幸せ的にチョイスしようかと思います。

謎ってもんはやっぱ楽しいものですね!(結局御都合主義に締め)

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1-6:大谷刑部の頭巾



大谷ファッション



私の中では「刑部といったら頭巾」です。
最初は白い人と呼んでいました。
大河ドラマで初めて見た刑部は頭巾をかぶっていて…白い。
自分のことを「白頭」だなんて文書に署名するくらいだから当時も相当白い人だったはず。
正直これを見た瞬間私の人生が20度くらい変ったと思います。
刑部の一目ぼれ、キーアイテム。いまでも私にとって刑部といえばコレ!だから居酒屋行ってとりあえずビール!みたいなノリで「とりあえず頭巾」について語ろうと思います。

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1-5:大谷刑部の宿病


大谷刑部の宿病

すみませんただいま工事中です

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1-4:大谷刑部の名前


大谷刑部こと大谷吉継。
彼の呼び名は文献や時期によってたくさんあります。 いろんな文献もちゃんぽんにすると

桂松・平馬・紀之介・吉継・吉隆 、役職名の略である「刑部」 、花押・署名で「白頭」など

昔の武士や貴族の人は成長の過程で名前を変えてゆく慣習がありました。
生まれてもちゃんと健やかに育つ子供が少なかった時代ですから元服(成人の儀礼)前にも折に触れ、戦いの前とかにもけじめ的感覚で名前替えが行われたようです。


●ケイマツ

慶松(桂松)「なんとか丸」「なんとか千代」「なんとか法師」的スタンダード幼名の範疇でないのは言うまでもなく、他の武将の幼名に比べても一風変わっているもののようで。けいまつ。
これは近江余呉湖出身説にある「誕生伝説」に由来します。
余呉湖のほとりに住んでいた庄作さん夫婦はなかなか子供に恵まれないため神社にお参りしていました。するとある時神様の御告げを二人は聞きその通りに神社に落ちていた松の実を拾って飲んだら晴れてお母さんはご懐妊。松の実のおかげ、神様のおかげ、大感謝でその生まれた男の子に「慶松」と命名した。
「慶びの松」そのまんま。ほほえましいかわいらしい。


●ヘイマ
●キノスケ

平馬と紀之介。これら文献に残る青年期の名前二つ。
すごいどうでもいい話ですが紀之介をノリノスケと読ませる小説があってなんかノリスケっぽいので脳内でキノスケと変換して読んでたんですがめっちゃ五助がひらがなで「のりのすけぇ~~!」とか叫ぶのでなにがなんだかもーいいやチクショウ!ってなりました。


●ギョウブ

刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう)という職についてからは、「大谷課長」という感じで「大谷刑部」と呼ばれていました。
当然仕事のオフィスワークでは大谷課長としての公的なサインが出回るので「吉継」という本名よりも「大谷刑部」という名のほうが現在でも通りがいい訳です。書簡にも刑部少輔という役職名はよく出てきます。
付け加えれば友達の石田三成は治部少輔(ぢぶしょうゆう)です。んで昔の人はコギャルのごとく略してよぶのが好きみたいで、大谷刑部少輔吉継は刑部、大刑、大刑少、とか石田三成は石田の治部とか治部少、石治少(いしぢしょう)なんて、アンタちょっと無理じゃないかと思うような呼ばれ方もしています。


●ヨシタカ

吉隆、これは何やら関ヶ原前に変えたという意見が一般的です。けじめとか踏ん切りとかそういう事でしょうか。ただそれを疑問視する記述もあった覚えがあり、今後の研究に期待しています。


●ハクトウ

白桃ではないです。「白頭」。
青年期、花押という当時の「筆跡鑑定用本人直筆署名」において見られる名前です。
すでに発病していたとか(三成や清正が揉め事起こすからか)心労のあまり白髪になったという説もあります。職場の事務作業で外見の特徴を名乗るというのは昔にしてもそうそうないかと思います。戒名にも著わされている名前です。
色々考えさせられる名前です。

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1-3:大谷刑部の謎な出生


大谷刑部は謎の人です。出身など謎に包まれています。だがそれがいい。
小説で映像でその他もろもろで、想像する・創作する余地をとても沢山残してくれている。
考えるのも人それぞれの刑部を知るのもすごく楽しいものです。
しかしなんの手がかりもない訳ではありません。刑部の出身についてちゃんと歴史学者の立てた説があり、それはかつての定説である「九州出身説」と、今の有力説「近江(滋賀県)出身説」に代表されそうです。


■九州出身説は大友氏家臣説とも言われています。
刑部の父大谷盛治は、豊後の英雄であるキリシタン大名大友宗麟に仕えていて、大友宗麟が没落してからは浪人になって近江にまで流れ着いたというもの。
しかし九州から仕官先を探すなら、近江までいく前に途中に毛利と言う大きな大名家があります。
さらに不自然なのは大友宗麟に仕官した理由が「アルメイダの治療をうけるため仕官」という話で、確かにキリシタン大名の大友さんはポルトガル人の外科医ルイス・アルメイダと言う人に豊後府内(大分市)に病院を作らせていましたが、病にかかっていた刑部の親父殿は治してほしさに仕官…?くさいです(胡散が)。
病気の治療という下心と自覚症状のある者を雇い入れる大名とかあるんでしょうか。さらにくさいので書きませんが(めんどが)重要な証拠と思われた「文献」という奴も当てにならない事がわかり、この説は今ではかなり眉唾といわれています。


■もう一つの近江出身説ですが
そのなかでも余呉湖出身説と六角氏家臣説とあと最近はまた新説がでてきてるようで、とりあえず最初の二つを今回書こうと思います。
余呉湖出身説によると刑部は羽衣伝説のある余呉湖の近くの小谷という集落出身。大谷という名は地名の小谷が変化したのだといわれています。小谷は余呉湖の近くであり、余呉湖は賤ヶ岳の本当にすぐそばです。個人的な考えですが、私は賤ヶ岳合戦時に刑部が凋落に回っていたといわれるのはひょっとしたらこの辺出身で土地勘があったためではないかとあのへんを自転車で走り回りながら思っていました。
話がずれましたが小谷出身説には誕生にまつわる伝説もあります。別ページで書くので今回ははしょりますが、この伝説によると父親の名は「庄作」でした。
六角氏家臣説ではその親父どのは六角氏の家臣だといわれ名前は「吉房」です。さらに

系図/行吉-吉永-吉忠-吉興=吉長-頼吉-(5代略)-吉房-吉継

な~んて「家系のわかっている由緒ある家」っぽくされています。。
通説では刑部=大谷吉継は秀吉家臣団の中で主人秀吉の諱名、名前の一部「吉」を貰ったものといわれています。なぜ代々受け継がれている?もし受け継がれていても主人に憚り別名を名乗るというのもありだと思うし、なんか後付けくさいぞ、と思ってしまう。
戦国時代の武将というのは大抵は成りあがりものですから、みんなどこかの馬の骨で偉くなると自分に見合う出自を後付けするというのがあるようです。本人、または家臣、時には英雄を求める民衆がです。六角氏家臣説では遠い御先祖は在原業平だーとか平貞盛だーとか言われてます。在原さんはたしか平安時代の歌人なのでたとえ戦国の時代でもこの人は「昔の有名人」。同じくこの人が御先祖だという武将はたくさんいて出自に箔をつけるために沢山使われたのがこの人ではないかと思うのです。


刑部が秀吉に仕えるようになったいきさつは色々あります。例えば母親の「東殿」が北政所(おね)の侍女であるとか縁者だとか、後の石田三成(幼名・佐吉)と同じ寺で小姓をしていたとか。石田佐吉は滋賀県長浜市石田町出身の武家の息子とされ屋敷跡も残ってますので刑部が滋賀県出身なら出会いや交流もさほど不自然ではない感じです。
大谷刑部と石田治部、この二人の馴れ初めが謎でさえなければきっと刑部はそんなに謎の人ではなかったでしょう。
つらつら書いてきましたがどちらの説も決定打がないのがミソでして、ひょっとしたらまた定説を覆す説が出てくるかもしれません。

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1-2:大谷刑部の一般的評価


2002年現在、大谷刑部の一般的評価は

「義のために散った武将」
「宿痾の異将」
「盲目の名将」
「友誼に殉じた仁将」…などなど、おおむねいい感じです。

歴史人物には毀誉褒貶(きよほうへん)がつきまといますが「誉と褒をモノにして、毀と貶はお友達(石田三成)にさしあげました」的な、斜な見方をすればちょっとできすぎだな、と思うくらいのイイ人像じゃないでしょうか。

年齢説も最近色んなものが出てきてるようですが、オーソドックスなのだと16歳のころ15歳の石田三成、幼名佐吉と一緒に秀吉の家臣いわゆる「子飼い衆」になったと言われています。
彼はよく歴史小説で「武将としても活躍できる資質の持ち主だった」とか誉めそやかされていますが実際の所は謎です。戦働きの場はそれほど与えられず事務官僚や兵站、縁の下の力持ち的仕事をこなしていたようで、歴史に闘いの記録が殆ど残っていないのです。
和議、仲裁、交渉なんかによく駆り出され、朝鮮へ行かされた時も仲間割れしそうな武将達の間を取り持ったり、戦争自体を和平に持っていこうとしたりか~な~り苦労したっぽいです。 よく関ヶ原でのごっつい戦いっぷりがクローズアップされますが、実際は「あくの強い面子の中で苦労してそうな人」みたいな。
そんなこの大谷刑部と言う人は病持ちでした。当時不治の病と恐れられ、業病、天刑病などといわれいろんな偏見や差別にさらされた癩、ハンセン病です。

関ヶ原の合戦は覚えやすい1600年。
そのころ大谷刑部は視神経を病にやられて目が見えず、体もボロボロで馬に乗る事も歩行も困難だったと言われてます。
だからお輿に乗って登場します。目立ちまくり、関ヶ原は奴のものって感じですが、着ているものも鎧を着けられないほど体の病状が酷かったとか、いざという時すぐ切腹できる様にわざと鎧をつけなかったとか、そんなんで通常の三倍死装束だったようです。

見えない目で家臣の報告を受け戦況を読んで奮戦したとか(実際は与力の平塚さんががんばったのかもしれませんが)この人の隊は少数ですが士気軒高、大軍を相手にひけを取らなかったとか言われています。
小早川の大群が山を下って襲いかかるまでは。

合戦前の布陣図がまっすぐ味方の小早川隊に向かっている事から概ねこの裏切りを予知していた説があります。(他には小早川は最初から敵軍だった説などさまざま) しかしこの裏切りに備えて配置していた?味方与力四隊も小早川の裏切りとともに大谷本隊を攻撃し始めたから大変なことに。
背後側面をつかれた大谷隊はけっこう粘るのですが敗走し、大谷刑部は切腹しました。

関ヶ原で切腹した武将はこの人だけだとされ、この辺けっこう歴史好き殿方の心を掴むみたいです。この後、病気で崩れた自分の顔を敵に晒すのは恥だと自分の首を家臣に隠させる逸話など、またドラマがあるんです。

「親友の力になるため、負けると予測していた戦いに死を覚悟で挑んだ」
この辺りは戦国の乱世ではない、安穏として平和な現代に生きる自分としてもの言いたい時があります。
が、この人は多分いろんな事で悩みまくっただろう、そしてそれら結論を何らかのかたちで42年の人生の中導き出した人だと思うのです。

美談に涙でなく判官贔屓とかでもなく、朴訥で地道で、しかし抗い難い歴史の流れの中で一本筋の通った生きかたをした武将、私はそんな風に思っています。

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1-1:大谷刑部はどんな人?(祟る人ってなぜ?)


戦国武将大谷刑部は死後、ある若者を祟り殺したと言われてます。

その若者の名前は小早川秀秋、関ヶ原合戦時19才。
よく言われる説では彼は戦いが始まって随分経っても東軍西軍どちらにつこうか迷いつづけた挙げ句、東軍ボス家康に脅されて布陣していたお山を駆け下り大谷隊を壊滅させた、そのため戦いの趨勢を左右する「大道化師」を演じたなんていわれています。

ところが戦の2年後、金吾くんは若干21歳で死んでしまった。
「こぇえ――!たたりだよ!!」と周りの人は思った。

戦い途中の裏切りと言うのは裏切り行為が常識の戦国時代でもかなり顰蹙なものでした。
金吾くんはその後色々な謗りを受けたとおもいます。祟りってもんは結局そう思う人の意識の問題っぽいので、死因は周りの視線とかを意識した結果の神経衰弱や、罪の意識による心の病なんかだと思うのですが、むかついた刑部が腹を切る前に「祟ってやる~~!」といいはなったとか、他にも後から付いた尾ひれっぽい話もあり、そんなこんなで長い時間かけて刑部は「祟る人」になっていったのです。

米原では首塚が「怖いお地蔵さん」だったりします。その反面お墓のある地元関ヶ原では『大谷刑部はとても頭の良い武将だったので、お墓にお参りすると頭の病が治る』とも言われているようです。
現代でもWEB上でこの人に祟られた―!言う人はけっこういます。(祟りは頭痛らしいです)

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2-1:大谷刑部の家族 その一




謎の大谷家報告書
―刑部が屏風に上手に坊主の絵を描いた―




▼長男?大谷大学介吉治(オオタニダイガクノスケヨシハル)大谷吉治

よく大谷大学と呼ばれている(だいがくのすけ=役職名)。
「大谷」「大学」と検索し本当に大谷ユニバーシティが出てきた衝撃。

長男からして実子じゃないかも、養子かも、
舎弟(弟分)を養子にしたんだよ、なんて言われている謎のご子息。
吉治という名前を関ヶ原前に改名して吉勝とした。
関ヶ原を落ち延びてのち、一度忍者のメッカ甲賀郡に潜伏したとも、本拠地敦賀にいってから大阪に向かったとも色々言われるが、再起を図って散り散りになった家臣を探しに浪人したと考えるのが普通っぽい。
しかし、大谷隊はかなり(本によってはこと如く)討ち死にしているようで、
「一生懸命探した。でも見つからなかった☆」
という悲しくなる記述を本で見た覚えがある。
彼も豊臣側につき大阪冬の陣・夏の陣で、義兄(弟?)である真田幸村(信繁)と共闘し討ち死にする。



▼次男?甥っ子?木下頼継

長男同様あーまーりーにーもー資料がすくない困ったご子息。

当時、次男は娘のように他家へ輿入れにする閨閥ツールとしても使えず、使いにくい家臣となったり、長男失脚を狙い家臣団二分、お家騒動の火種になったりちょっと厄介な存在だった。
刑部の次男とされている木下頼継。
ハマってすぐの頃は木下、えっ木下藤吉郎?大谷吉継は太閤秀吉の諱名(名前の一部)「吉」)を子飼い衆でただ一人もらったなんて言われ、主人の諱名を貰うのは大変な名誉らしいので、うっかり次男までこんな苗字をいただいたとするなら何気にすごく可愛がられてないか?ひゃっほう流石は刑部!とか軽率に考えたりしていました。
彼は関ヶ原のとき大谷吉治と共に落ち延びるが、その後まもなく病気で死んだとされる。



大谷刑部と言う人のきちんとした肖像画は何も無い。
顔を隠したくらいだから絵師に描かれるのはもっと嫌とかそういう事なのか。
でも彦根城博物館蔵「関カ原合戦図屏風」(同名多いので気をつけて下さい)の中では色々な武将が入り乱れて戦っている絵がありそのすみっこにひっそりといます。
平塚為広という友達が辞世の句と一緒に送った首を前にして返歌どぎゃんすんべぇと思案してるっぽいなんかのほほんとしていて素敵な刑部。
その絵巻には刑部の隣に、ある気になる人物がはべっている。
その名は祐玄坊。



▼「刑部が屏風に… 」甥っ子?謎の僧侶・祐玄坊

彼は家臣湯浅五助とならんで刑部の首を隠した男と言われている。
甥の僧だといわれるが頼継と同様その両親の名前は不明で、絵巻に描かれるくらいなのでそれなりに知れた人間かもしれないが大谷家の共通点として「呆れるくらい謎」です。
「戦国武将ものしり事典」によれば(この辺すでに困窮)大谷刑部には「刑部三人衆」と呼ばれる三人の影武者がいたと言う。
頭巾を被っているなら確かに偽装は簡単と思いますが、関ヶ原における彼らの活躍は文献に残っておらずそもそも「三人衆」自体何処から得た情報なのか…。
ただ影武者を勤めるものが身内であったケースは多い様なので、もしかしたら祐玄も刑部の影武者だったかもしれません…




▼娘?=真田信繁(幸村)の妻、竹松院

他の三人に比べれば実子の可能性は高そうですが、
ある本で彼女も養子とされていたので疑問符をつけておきます。

真田信繁…幸村と言うと通りがいい「有名人の奥さん」
自分は大谷刑部を初めて見た時「石田三成の親友」と教えられて、とりあえず「有名人の親友」としてインプットした恥かしい過去がありますが、娘婿にあの!真田幸村が出てきた時も物凄くびっくりしました。

晩年は嫁いだ娘たちの庇護のもと過し竹松院と名乗った。
例によって資料が少なく確かな事はほとんど言えないのですが、自分で計算したおぼつかない発見によると、彼女・刑部が20歳以下の時に生まれていないと真田との結婚時12歳以下になる恐ろしい事態発生。
当時としては珍しくないが24歳と12歳…。彼女の最初の子「あくり」の出生年を調べるのは怖くてまだやってないです。普通に政略結婚だと思いますが信繁の九度山蟄居時一緒に暮していた様なので長男その他結構子供に恵まれて仲は悪くなかったのでは、と考えています。

真田の娘の中で大阪夏の陣で落城する大阪城から逃れてきた美少女を伊達正宗の家臣、片倉なんとか言う人が捕らえて侍女にして後妻にしたらしい。例の刑部三人衆が書いてある「戦国武将ものしり事典」ではその美少女「阿梅」は大谷刑部の娘の子(つまり孫)とされている。
でも一般的には幸村の家臣、高梨内記の娘の子とされているのでぬか喜びに注意。

「家康の前に引き出されて、信繁が父親(刑部?)から拝領した脇差を取り上げられた話」などもあった気がします。

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