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祟る人ファンクラブログ

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2-1:大谷刑部の家族 その一




謎の大谷家報告書
―刑部が屏風に上手に坊主の絵を描いた―




▼長男?大谷大学介吉治(オオタニダイガクノスケヨシハル)大谷吉治

よく大谷大学と呼ばれている(だいがくのすけ=役職名)。
「大谷」「大学」と検索し本当に大谷ユニバーシティが出てきた衝撃。

長男からして実子じゃないかも、養子かも、
舎弟(弟分)を養子にしたんだよ、なんて言われている謎のご子息。
吉治という名前を関ヶ原前に改名して吉勝とした。
関ヶ原を落ち延びてのち、一度忍者のメッカ甲賀郡に潜伏したとも、本拠地敦賀にいってから大阪に向かったとも色々言われるが、再起を図って散り散りになった家臣を探しに浪人したと考えるのが普通っぽい。
しかし、大谷隊はかなり(本によってはこと如く)討ち死にしているようで、
「一生懸命探した。でも見つからなかった☆」
という悲しくなる記述を本で見た覚えがある。
彼も豊臣側につき大阪冬の陣・夏の陣で、義兄(弟?)である真田幸村(信繁)と共闘し討ち死にする。



▼次男?甥っ子?木下頼継

長男同様あーまーりーにーもー資料がすくない困ったご子息。

当時、次男は娘のように他家へ輿入れにする閨閥ツールとしても使えず、使いにくい家臣となったり、長男失脚を狙い家臣団二分、お家騒動の火種になったりちょっと厄介な存在だった。
刑部の次男とされている木下頼継。
ハマってすぐの頃は木下、えっ木下藤吉郎?大谷吉継は太閤秀吉の諱名(名前の一部)「吉」)を子飼い衆でただ一人もらったなんて言われ、主人の諱名を貰うのは大変な名誉らしいので、うっかり次男までこんな苗字をいただいたとするなら何気にすごく可愛がられてないか?ひゃっほう流石は刑部!とか軽率に考えたりしていました。
彼は関ヶ原のとき大谷吉治と共に落ち延びるが、その後まもなく病気で死んだとされる。



大谷刑部と言う人のきちんとした肖像画は何も無い。
顔を隠したくらいだから絵師に描かれるのはもっと嫌とかそういう事なのか。
でも彦根城博物館蔵「関カ原合戦図屏風」(同名多いので気をつけて下さい)の中では色々な武将が入り乱れて戦っている絵がありそのすみっこにひっそりといます。
平塚為広という友達が辞世の句と一緒に送った首を前にして返歌どぎゃんすんべぇと思案してるっぽいなんかのほほんとしていて素敵な刑部。
その絵巻には刑部の隣に、ある気になる人物がはべっている。
その名は祐玄坊。



▼「刑部が屏風に… 」甥っ子?謎の僧侶・祐玄坊

彼は家臣湯浅五助とならんで刑部の首を隠した男と言われている。
甥の僧だといわれるが頼継と同様その両親の名前は不明で、絵巻に描かれるくらいなのでそれなりに知れた人間かもしれないが大谷家の共通点として「呆れるくらい謎」です。
「戦国武将ものしり事典」によれば(この辺すでに困窮)大谷刑部には「刑部三人衆」と呼ばれる三人の影武者がいたと言う。
頭巾を被っているなら確かに偽装は簡単と思いますが、関ヶ原における彼らの活躍は文献に残っておらずそもそも「三人衆」自体何処から得た情報なのか…。
ただ影武者を勤めるものが身内であったケースは多い様なので、もしかしたら祐玄も刑部の影武者だったかもしれません…




▼娘?=真田信繁(幸村)の妻、竹松院

他の三人に比べれば実子の可能性は高そうですが、
ある本で彼女も養子とされていたので疑問符をつけておきます。

真田信繁…幸村と言うと通りがいい「有名人の奥さん」
自分は大谷刑部を初めて見た時「石田三成の親友」と教えられて、とりあえず「有名人の親友」としてインプットした恥かしい過去がありますが、娘婿にあの!真田幸村が出てきた時も物凄くびっくりしました。

晩年は嫁いだ娘たちの庇護のもと過し竹松院と名乗った。
例によって資料が少なく確かな事はほとんど言えないのですが、自分で計算したおぼつかない発見によると、彼女・刑部が20歳以下の時に生まれていないと真田との結婚時12歳以下になる恐ろしい事態発生。
当時としては珍しくないが24歳と12歳…。彼女の最初の子「あくり」の出生年を調べるのは怖くてまだやってないです。普通に政略結婚だと思いますが信繁の九度山蟄居時一緒に暮していた様なので長男その他結構子供に恵まれて仲は悪くなかったのでは、と考えています。

真田の娘の中で大阪夏の陣で落城する大阪城から逃れてきた美少女を伊達正宗の家臣、片倉なんとか言う人が捕らえて侍女にして後妻にしたらしい。例の刑部三人衆が書いてある「戦国武将ものしり事典」ではその美少女「阿梅」は大谷刑部の娘の子(つまり孫)とされている。
でも一般的には幸村の家臣、高梨内記の娘の子とされているのでぬか喜びに注意。

「家康の前に引き出されて、信繁が父親(刑部?)から拝領した脇差を取り上げられた話」などもあった気がします。

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