戦国武将大谷刑部は死後、ある若者を祟り殺したと言われてます。
その若者の名前は小早川秀秋、関ヶ原合戦時19才。
よく言われる説では彼は戦いが始まって随分経っても東軍西軍どちらにつこうか迷いつづけた挙げ句、東軍ボス家康に脅されて布陣していたお山を駆け下り大谷隊を壊滅させた、そのため戦いの趨勢を左右する「大道化師」を演じたなんていわれています。
ところが戦の2年後、金吾くんは若干21歳で死んでしまった。
「こぇえ――!たたりだよ!!」と周りの人は思った。
戦い途中の裏切りと言うのは裏切り行為が常識の戦国時代でもかなり顰蹙なものでした。
金吾くんはその後色々な謗りを受けたとおもいます。祟りってもんは結局そう思う人の意識の問題っぽいので、死因は周りの視線とかを意識した結果の神経衰弱や、罪の意識による心の病なんかだと思うのですが、
むかついた刑部が腹を切る前に「祟ってやる~~!」といいはなったとか、他にも後から付いた尾ひれっぽい話もあり、そんなこんなで長い時間かけて刑部は「祟る人」になっていったのです。
米原では首塚が「怖いお地蔵さん」だったりします。その反面お墓のある地元関ヶ原では『大谷刑部はとても頭の良い武将だったので、お墓にお参りすると頭の病が治る』とも言われているようです。
現代でもWEB上でこの人に祟られた―!言う人はけっこういます。(祟りは頭痛らしいです)
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