大谷刑部は謎の人です。出身など謎に包まれています。だがそれがいい。
小説で映像でその他もろもろで、想像する・創作する余地をとても沢山残してくれている。
考えるのも人それぞれの刑部を知るのもすごく楽しいものです。
しかしなんの手がかりもない訳ではありません。刑部の出身についてちゃんと歴史学者の立てた説があり、それはかつての定説である「九州出身説」と、今の有力説「近江(滋賀県)出身説」に代表されそうです。
■九州出身説は大友氏家臣説とも言われています。
刑部の父大谷盛治は、豊後の英雄であるキリシタン大名大友宗麟に仕えていて、大友宗麟が没落してからは浪人になって近江にまで流れ着いたというもの。
しかし九州から仕官先を探すなら、近江までいく前に途中に毛利と言う大きな大名家があります。
さらに不自然なのは大友宗麟に仕官した理由が「アルメイダの治療をうけるため仕官」という話で、確かにキリシタン大名の大友さんはポルトガル人の外科医ルイス・アルメイダと言う人に豊後府内(大分市)に病院を作らせていましたが、病にかかっていた刑部の親父殿は治してほしさに仕官…?くさいです(胡散が)。
病気の治療という下心と自覚症状のある者を雇い入れる大名とかあるんでしょうか。さらにくさいので書きませんが(めんどが)重要な証拠と思われた「文献」という奴も当てにならない事がわかり、この説は今ではかなり眉唾といわれています。
■もう一つの近江出身説ですが
そのなかでも余呉湖出身説と六角氏家臣説とあと最近はまた新説がでてきてるようで、とりあえず最初の二つを今回書こうと思います。
余呉湖出身説によると刑部は羽衣伝説のある余呉湖の近くの小谷という集落出身。大谷という名は地名の小谷が変化したのだといわれています。小谷は余呉湖の近くであり、余呉湖は賤ヶ岳の本当にすぐそばです。個人的な考えですが、私は賤ヶ岳合戦時に刑部が凋落に回っていたといわれるのはひょっとしたらこの辺出身で土地勘があったためではないかとあのへんを自転車で走り回りながら思っていました。
話がずれましたが小谷出身説には誕生にまつわる伝説もあります。別ページで書くので今回ははしょりますが、この伝説によると父親の名は「庄作」でした。
六角氏家臣説ではその親父どのは六角氏の家臣だといわれ名前は「吉房」です。さらに
系図/行吉-吉永-吉忠-吉興=吉長-頼吉-(5代略)-吉房-吉継
な~んて「家系のわかっている由緒ある家」っぽくされています。。
通説では刑部=大谷吉継は秀吉家臣団の中で主人秀吉の諱名、名前の一部「吉」を貰ったものといわれています。なぜ代々受け継がれている?もし受け継がれていても主人に憚り別名を名乗るというのもありだと思うし、なんか後付けくさいぞ、と思ってしまう。
戦国時代の武将というのは大抵は成りあがりものですから、みんなどこかの馬の骨で偉くなると自分に見合う出自を後付けするというのがあるようです。本人、または家臣、時には英雄を求める民衆がです。六角氏家臣説では遠い御先祖は在原業平だーとか平貞盛だーとか言われてます。在原さんはたしか平安時代の歌人なのでたとえ戦国の時代でもこの人は「昔の有名人」。同じくこの人が御先祖だという武将はたくさんいて出自に箔をつけるために沢山使われたのがこの人ではないかと思うのです。
刑部が秀吉に仕えるようになったいきさつは色々あります。例えば母親の「東殿」が北政所(おね)の侍女であるとか縁者だとか、後の石田三成(幼名・佐吉)と同じ寺で小姓をしていたとか。石田佐吉は滋賀県長浜市石田町出身の武家の息子とされ屋敷跡も残ってますので刑部が滋賀県出身なら出会いや交流もさほど不自然ではない感じです。
大谷刑部と石田治部、この二人の馴れ初めが謎でさえなければきっと刑部はそんなに謎の人ではなかったでしょう。
つらつら書いてきましたがどちらの説も決定打がないのがミソでして、ひょっとしたらまた定説を覆す説が出てくるかもしれません。
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