2002年現在、大谷刑部の一般的評価は
「義のために散った武将」
「宿痾の異将」
「盲目の名将」
「友誼に殉じた仁将」…などなど、おおむねいい感じです。
歴史人物には毀誉褒貶(きよほうへん)がつきまといますが「誉と褒をモノにして、毀と貶はお友達(石田三成)にさしあげました」的な、
斜な見方をすればちょっとできすぎだな、と思うくらいのイイ人像じゃないでしょうか。
年齢説も最近色んなものが出てきてるようですが、オーソドックスなのだと16歳のころ15歳の石田三成、幼名佐吉と一緒に秀吉の家臣いわゆる「子飼い衆」になったと言われています。
彼はよく歴史小説で「武将としても活躍できる資質の持ち主だった」とか誉めそやかされていますが実際の所は謎です。戦働きの場はそれほど与えられず事務官僚や兵站、縁の下の力持ち的仕事をこなしていたようで、
歴史に闘いの記録が殆ど残っていないのです。
和議、仲裁、交渉なんかによく駆り出され、朝鮮へ行かされた時も仲間割れしそうな武将達の間を取り持ったり、戦争自体を和平に持っていこうとしたりか~な~り苦労したっぽいです。 よく関ヶ原でのごっつい戦いっぷりがクローズアップされますが、実際は「あくの強い面子の中で苦労してそうな人」みたいな。
そんなこの大谷刑部と言う人は病持ちでした。当時不治の病と恐れられ、業病、天刑病などといわれいろんな偏見や差別にさらされた癩、ハンセン病です。
関ヶ原の合戦は覚えやすい1600年。
そのころ大谷刑部は視神経を病にやられて目が見えず、体もボロボロで馬に乗る事も歩行も困難だったと言われてます。
だからお輿に乗って登場します。目立ちまくり、関ヶ原は奴のものって感じですが、着ているものも鎧を着けられないほど体の病状が酷かったとか、いざという時すぐ切腹できる様にわざと鎧をつけなかったとか、そんなんで
通常の三倍死装束だったようです。
見えない目で家臣の報告を受け戦況を読んで奮戦したとか(実際は与力の平塚さんががんばったのかもしれませんが)この人の隊は少数ですが士気軒高、大軍を相手にひけを取らなかったとか言われています。
小早川の大群が山を下って襲いかかるまでは。
合戦前の布陣図がまっすぐ味方の小早川隊に向かっている事から概ねこの裏切りを予知していた説があります。(他には小早川は最初から敵軍だった説などさまざま) しかしこの裏切りに備えて配置していた?味方与力四隊も小早川の裏切りとともに大谷本隊を攻撃し始めたから大変なことに。
背後側面をつかれた大谷隊はけっこう粘るのですが敗走し、大谷刑部は切腹しました。
関ヶ原で切腹した武将はこの人だけだとされ、この辺けっこう歴史好き殿方の心を掴むみたいです。この後、病気で崩れた自分の顔を敵に晒すのは恥だと自分の首を家臣に隠させる逸話など、またドラマがあるんです。
「親友の力になるため、負けると予測していた戦いに死を覚悟で挑んだ」
この辺りは戦国の乱世ではない、安穏として平和な現代に生きる自分としてもの言いたい時があります。
が、この人は多分いろんな事で悩みまくっただろう、そしてそれら結論を何らかのかたちで42年の人生の中導き出した人だと思うのです。
美談に涙でなく判官贔屓とかでもなく、朴訥で地道で、しかし抗い難い歴史の流れの中で一本筋の通った生きかたをした武将、私はそんな風に思っています。
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