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1-4:大谷刑部の名前


大谷刑部こと大谷吉継。
彼の呼び名は文献や時期によってたくさんあります。 いろんな文献もちゃんぽんにすると

桂松・平馬・紀之介・吉継・吉隆 、役職名の略である「刑部」 、花押・署名で「白頭」など

昔の武士や貴族の人は成長の過程で名前を変えてゆく慣習がありました。
生まれてもちゃんと健やかに育つ子供が少なかった時代ですから元服(成人の儀礼)前にも折に触れ、戦いの前とかにもけじめ的感覚で名前替えが行われたようです。


●ケイマツ

慶松(桂松)「なんとか丸」「なんとか千代」「なんとか法師」的スタンダード幼名の範疇でないのは言うまでもなく、他の武将の幼名に比べても一風変わっているもののようで。けいまつ。
これは近江余呉湖出身説にある「誕生伝説」に由来します。
余呉湖のほとりに住んでいた庄作さん夫婦はなかなか子供に恵まれないため神社にお参りしていました。するとある時神様の御告げを二人は聞きその通りに神社に落ちていた松の実を拾って飲んだら晴れてお母さんはご懐妊。松の実のおかげ、神様のおかげ、大感謝でその生まれた男の子に「慶松」と命名した。
「慶びの松」そのまんま。ほほえましいかわいらしい。


●ヘイマ
●キノスケ

平馬と紀之介。これら文献に残る青年期の名前二つ。
すごいどうでもいい話ですが紀之介をノリノスケと読ませる小説があってなんかノリスケっぽいので脳内でキノスケと変換して読んでたんですがめっちゃ五助がひらがなで「のりのすけぇ~~!」とか叫ぶのでなにがなんだかもーいいやチクショウ!ってなりました。


●ギョウブ

刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう)という職についてからは、「大谷課長」という感じで「大谷刑部」と呼ばれていました。
当然仕事のオフィスワークでは大谷課長としての公的なサインが出回るので「吉継」という本名よりも「大谷刑部」という名のほうが現在でも通りがいい訳です。書簡にも刑部少輔という役職名はよく出てきます。
付け加えれば友達の石田三成は治部少輔(ぢぶしょうゆう)です。んで昔の人はコギャルのごとく略してよぶのが好きみたいで、大谷刑部少輔吉継は刑部、大刑、大刑少、とか石田三成は石田の治部とか治部少、石治少(いしぢしょう)なんて、アンタちょっと無理じゃないかと思うような呼ばれ方もしています。


●ヨシタカ

吉隆、これは何やら関ヶ原前に変えたという意見が一般的です。けじめとか踏ん切りとかそういう事でしょうか。ただそれを疑問視する記述もあった覚えがあり、今後の研究に期待しています。


●ハクトウ

白桃ではないです。「白頭」。
青年期、花押という当時の「筆跡鑑定用本人直筆署名」において見られる名前です。
すでに発病していたとか(三成や清正が揉め事起こすからか)心労のあまり白髪になったという説もあります。職場の事務作業で外見の特徴を名乗るというのは昔にしてもそうそうないかと思います。戒名にも著わされている名前です。
色々考えさせられる名前です。

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